2度の進路変更の末に見つけた「メディアアート」への道
――中村さんが代表取締役社長を務める「しくみデザイン」は、メディアアートやクリエイティブ教育などで注目を集める存在です。設立の2005年ごろは、分野としてまだ黎明期だったかと思われますが、どのような経緯でこの世界に入られたのでしょうか。
確かに「子どものころから目指して」入った世界では決してないですね。むしろ「思ってもみなかった」というのが正直なところです。現在、会社は福岡にありますが、高校卒業までは群馬県で育ち、名古屋大学の建築学科に進みました。進学校にいたこともあり、ものづくりができる学部として、当時の自分はそれしか思いつかなかったんです。そのため周囲の学生と比べると動機が浅く、勉強していても「自分がやりたかったことと何か違うな」といった違和感が常にありました。
そんな中、アルバイトで建築の製図ツール用のプログラミングを経験し、図面を引くことよりも楽しいと感じるようになりました。建築は図面を引いた後、多くの人の手を経て建物ができますが、プログラミングは自分で書いたことが最終的な成果物になる。「アイディアを思いついてから完成までを全部やることが好きなんだ」と気づいたのです。
そんな折、大学院の試験に落ちてしまい……「これは建築を辞めろということなんだな」と合点して先生に相談しました。九州芸術工科大学(現在の九州大学芸術工学部)のグラフィックデザインの先生を紹介してもらい、一浪して進学したのですが、そこでもまた進路変更をすることになります。大学院生の自分よりも、入学したての大学1年生のほうが断然絵が上手なんですよね。みんな絵の勉強をして受験を突破しているので当然といえば当然。もうこのままでは「勝てない」と思いました。
そこで思い出したのが「プログラミング」です。大学院進学で九州に来てからずっと、親の支援を受けずにプログラミングのアルバイトで学費や生活費を稼いでいました。そこで「プログラミングとデザインを組み合わせた作品を制作しよう」と考えたのです。当時はまだメディアアートに取り組んでいる人も少なかったので、「チャンスだ」と思いました。
そしてその第1作が、あるコンテストでいきなり部門賞を取ることになりました。映像でもCGでもない部門で、まだ応募数が少なかったこともあり「ブルーオーシャン」だったんですよね。これはおいしいなと気がつきまして(笑)、しばらくはコンテスト出品を目的に制作を続けました。過去の受賞作品から好まれる傾向を分析し、自分がつくりたいものと融合させて作品にする……その結果、出品した作品はすべて賞を取るような状況となり、2年間で200万円ほど稼ぐことができました。そのうちのひとつが、今の「KAGURA」の原型となった「神楽」です。
コンプレックスが昇華した「KAGURA」で起業することに
――「KAGURA」といえば、カメラで検知した体の動きを音楽に変換して演奏する楽器アプリです。国内だけでなく海外からも注目を浴びていますよね。その開発や会社設立に至るまでの経緯についてお聞かせください。
「KAGURA」開発に至る原点は「楽器ができない」という私自身のコンプレックスにあります。音楽が好きで、演奏することに憧れるけど、練習嫌いで弾けない。大学院生までずるずると引きずったコンプレックスをパワーにして、楽器の練習ではなくプログラミングにぶつけたのが「神楽」でした。
幸いこちらも賞を頂き、その一部を使って「体の動きをリアルタイムで検出して音を出す」特許を取りました。特許には興味がなかったのですが、ある方から「ほかの人に特許を取られないために取ったほうがいい」とアドバイスをもらい、さらにビジネスプランコンテストも紹介していただいて出すことにしました。そこでグランプリを獲得することができ、ヤングベンチャー支援の補助金に申請しました。補助金は事業に使うことが前提なので自分のものではない。そこで必然的に起業することになりました。
とは言え「KAGURA」をそのままビジネスにするのは難しいので、仕組みを広告に転用できないかと考え、インタラクティブなデジタルサイネージのビジネスを始めました。受託開発ではありますが「なにか面白いことを」と発注いただくので楽しいことばかりでしたね。野球場のサイネージに映った観客をみんな虎にしたり、夏の暑い日にサイネージの側を歩くとビールの栓が飛んでシュワワーっとはじけたり……参加型の広告は、今も当社のメイン事業のひとつです。
会社をクリエイティブ集団として大きく成長させるため、自分より技術がある人をどんどん採用したこともあり、私自身は企画やマネジメントに集中する時間が増えました。すると、「自分たちばかりがずっとつくる人でいいのかな?」と考えるようになったんです。その理由としては、ひとつは技術の進化によって、多くの人が簡単に何かをつくり出せるようになったこと、そしてもうひとつはメンバーが親世代になり、次の世代のことを気にかけるようになったことがあります。
これまでの経験から「つくることが楽しい」のはわかっているし、「つくったもので世の中をもっと楽しくしたい」と願ってきました。そして、世の中をもっと楽しくするには、「つくる」よりも「つくる仲間」を増やすほうが早いだろうと考えました。そのためには誰もが「つくってみたい」と思えるように、さらに「つくれるようになる」敷居を下げることが必要です。テクノロジーはそれらを実現できるのではないか、そう考えました。
思い返せば、楽器を演奏できなかった私が「KAGURA」によって音楽を奏でられるようになったのもテクノロジーのおかげです。そして「完成形をつくるだけでなく、つくれる環境とツールを生み出そう」と、「Springin’」の構想が生まれたのです。