AIにはない、人間だからこそできる「記号接地」
「自走できる学び手」になるための、最も重要で基礎的な第一歩は何か。今井氏は、その鍵として「記号接地(シンボルグラウンディング)」という概念を提示した。「接地」とはインストール(設置)ではなく、地面に接する(接地)を意味し、英語ではグラウンディングと呼ばれる。
「記号接地とは、抽象的な記号や概念を、学び手自身の身体的な経験や感覚にしっかりと結び付けること。知識が地面に足をつけている状態が『記号接地』である」(今井氏)
この記号接地こそが、人間とAIの学びを分ける決定的な境界線となるという。例えば生成AIに「イチゴとは何か」とたずねると、「赤くて甘酸っぱい果物」といった詳細な説明を返すが、AI自身はイチゴに触れたことも味わったこともないし、匂いも食感も知らない。AIの知識は、膨大な言語データから統計的に最も確率の高い単語を連結しているだけであり、身体感覚には「接地」していない。「地面に降りることなく、回り続けるメリーゴーランドのようだ」と今井氏は指摘する。
問題は、この「記号接地ができていない」状態が、AIだけの問題ではなく、人間の子どもたちの間でも広く見られることだ。今井氏は、自身が開発に携わった「たつじんテスト」で行った結果をもとに、その深刻な実態を紹介した。
例えば、算数では「250g入りのお菓子が30%増量になったら、何gになる?」という問題で、多くの子が「250×0.3」と式を立ててしまった。また、ある子どもは「0.3をかけると減ってしまうから、掛け算ではなく割り算にした」と回答したという。
さらに驚くべきことに、小学5年生の半数が「1/2と1/3のどちらが大きいか」を正しく答えられないという結果となった。加えて、中学2年生に同じテストを行ったところ、1/4が誤答したという。

読解力を測るテストでは、「等しい」という言葉の意味をたずねると、多くの小学生が「同じ」ではなく「近い」と答えた。「『同じ』と『近い』の決定的な違いを理解していなければ、算数や数学は成り立たない」と今井氏は警告する。
このテストを通して、子どもたちは教科書に書かれたことを暗記しても、自分の生活経験に結び付いていないから意味がわからない状態のまま、計算の仕方だけを覚えているということが明らかになった。また、近年問題になっている子どもの読解力についても、「スキーマがない。語彙も少なく、接続詞の意味がわかっていない点も原因」だとした。さらに、学力上位層においても半数が読解力不足であるという危機的な状況にあることを挙げ、「概念や言葉が経験に結び付いておらず、接地できていない。子どもたちが、自らの経験に照らして理解するという体験が圧倒的に足りていない」と今井氏は指摘した。
AI時代の教育は、子どもの「考える筋肉」を鍛える
では、子どもたちの学びをしっかりと「接地」させるために、教育は何をすべきか。今井氏は「先生が『こうしなさい』と言うのではなく、子どもが間違えながらも自ら抽象的な概念を体験に接地できるような工夫を、先生の力でサポートしてほしい」と話す。
「概念を接地させるには、まずたくさんの具体的な事例である『点』に触れることが必要。しかも、典型的な事例だけでなく、多様な事例に触れさせること。そして間違えたときには、子ども自身が修正できるように支援していくことも重要だ」と説明。その好例がフィンランドの幼児教育で、子どもたちは森の中で遊びながら、数や量といった抽象的な概念を、具体的な体験を通して身体に接地させていくという。
今井氏は「人間の子どもは、3歳でも見た目を足がかりにして自分で抽象化する力を持っている」と話す。そのうえで「個人差はあるが、基本的には、どのような子どもでも抽象化はできる。大事なことは、大人が教えるのではなく自分で抽象化をさせる経験をすること。それで初めて、自分の体に知識を接地することができる」と強調した。これを「ブートストラッピング・サイクル」といい、子どもは最初は見た目の類似性などを足がかりに言葉の意味を推論するが、間違いを経験し新たなヒントに触れることで、「形よりも大事な本質がある」という、より高次の「学び方」を学んでいく。

今井氏は「教育で大事なことは、子どもたちに正解を教えることではない。正解を1つだと思わずに、一番よい解決法を自分たちで探していけるような支援をすること。学校では子どもたちの記号接地を助けて、概念の意味を考え続ける習慣づけを援助してほしい」と、改めて参加者に伝えた。
最後に「AIはアブダクションも記号接地もしない」と指摘したうえで、台湾でデジタル担当大臣を務めたオードリー・タン氏の言葉を引用し、講演を締めくくった。
「AIだけで問題解決をしてしまうのは、自分はジムに行かずにロボットにウェイトトレーニングをさせるようなもので、自分の筋肉は決して成長しない。同様に、子どもたちが『考える筋肉』を育てるためには、自分の体を使って、自分で接地し、自ら推論をして、そして推論の誤りを修正するという習慣をつけなければいけない。今だからこそ、そういった教育が必要である」(今井氏)
今井むつみ氏の講演は、AI時代に改めて「人間の学びの本質」を問い、「生きた知識」の重要さを痛感させるものだった。「生きた知識」を自ら作り出すことができる「自走できる学び手」を育むことが、これからの教育における目標のひとつとなっていくことだろう。