【質疑応答】教育における「ふつう」のアップデートで意識すべきポイントは?
さまざまな視点から、教育における「ふつう」や、そのアップデートのあり方について語る3人に対し、さまざまな質問が寄せられた。その一部を抜粋して紹介する。
社会人の国際的な議論の場では、我先に自分の意見を主張し合う場面が多い。対して、日本の小学校で一般的な「挙手して指名される」授業スタイルは、秩序や同調を重んじる文化の表れだと感じている。これは一例かと思うが、どのように考えているか。
野口氏:まず前提として、日本とアメリカの教育について、どちらにも課題やよさがあり、単純な優劣では語れないことは確認しておきたい。そのうえで、例えば授業中の「質問があるときは挙手して指名されてから話す」という一般的な作法についても、慣習的にその規範を継続するのではなく、いったん立ち止まって先生と子どもが一緒に「本当にこのやり方がよいのか?」と問い直すことが大切ではないか。これは運動会などの行事についても同様であり、何のために行うのか、子どもたちに何を伝えたいのかを再考することで、より意味のある教育活動になると思う。
また「1学級あたりの人数はなぜ減らないのか」という疑問もある。日本では「学級」という単位が強く根付いており、どの学級に在籍するかによって教員の数と教育課程が異なる。つまり、特別支援学級や特別支援学校など別の場に在籍しなければ追加的に教員が配置されない。分ければ分けるほど、分けた子どもにとっては「手厚い」支援が可能になるかもしれないが、全体では教職員の数が分けた先に必要になり、教員不足を招く。この構造自体をどう変えるかが大きな問題だ。
さらに、単に学級人数を減らせばインクルーシブになるかというと、そう単純な話ではなく、それ以上に教育の「OS」そのものを見直すことが重要なのではないか。根本的な価値観や仕組みを変える必要があり、表面的な改善では本質的な課題は解決しないと考えている。
多様性を尊重しつつも、子どもたちに「多様性=自分勝手な行動」と誤解されないようにするためには、教師はどのような関わり方や対話を心がけるべきか?
野口氏:多様性を尊重する教育の実践においては、「社会モデル」の視点を知ることが何より重要。子どもたちにとって、今の困りごとを社会モデルの視点で見ると「何が障壁になっているのか」を考えることが出発点であり、現在の世の中の「ふつう」が誰かにとっての障壁になっている実態を知ることが大切だ。
例えば、毎日遅刻する子どもは「自分勝手」とみなされがちだが、人間には朝型・夜型の違いや睡眠時間にも個人差があることが科学的にわかっている。そうした知識がないまま、子どもも教師も「早起きできない=悪いこと」と捉えてしまうことがある。
だからこそ、子どもたちと一緒に「何が障壁なのか」「どのような事情があるのか」を社会モデルの視点で話し合うことが大切。多様な人がいるということを知識として知ったうえで、それを踏まえて誰もが過ごしやすい学校づくりをするための対話こそが、インクルーシブな学びの土台になる。
貧困を理由に、教育の機会や意欲を失うというケースが多いのではないか。そうした場合、どのような支援が必要なのか。
今度氏:教育や福祉の支援においては、経済的な困窮よりも「関心の有無」が大きな壁になることが多い。たとえ医療費や教育費を無料にする施策があっても、保護者に関心がなければ子どもを病院に連れて行かず、塾にも通わせない。つまり、金銭的な支援だけでは子どもの状況は改善されないという現実がある。
根本的な課題を解決するには家庭環境の再構築が必須であり、福祉的なサポートを通じて、保護者が子どもに目を向けられるような余裕を持てる環境を整えることが不可欠だ。例えば、インターネットで知り合った人に何度も会いに行ってしまう中学生女子の事例は、情報モラル教育だけで解決できない。その子は家庭内で孤立しており、両親は下のきょうだいだけを連れて外出するなど、彼女をおざなりにしていた。彼女が求めていたのは、情報ではなく「つながり」だったというわけだ。
このようなケースでは、メディア教育だけでなく人権の視点や福祉的な支援が欠かせない。学校だけで対応するのではなく、関係機関と連携しながら家庭環境を整えていく必要がある。貧困に対する正しい知識と理解を広げ、保護者が子どもに目を向けられるような社会的な支えを築くことが重要であり、教育はそうした環境づくりの延長線上にあるべきではないか。
多様な価値観を持つ人々が共存する社会では、ある程度の分断が生じるのは避けられないが、それを理由にマイノリティを排除することは望ましくない。分断を伴わずに多様性の尊重を促進するためには、教育が唯一の解なのか。
藤原氏:私は教育学部ではなく政治学で「正義論」を扱うゼミに所属し、大学院では公共政策学を学んだ。「なぜマイノリティと共に生きる必要があるのか」という問いについては、生活を共にしない限り、マイノリティの存在が「いないもの」として扱われてしまう危険性があり、それを前提として投票行動がなされることの危険性を指摘したい。
また、哲学者ジュディス・バトラーが「グリーバビリティ(grievability:哀悼可能性)」の概念で示すように、社会がどの命を「生きるに値する/死ぬに値する」とみなすかを勝手に決めることは間違っており、いかなる命も平等に大切にされるべき。これは教育だけで解決できる問題ではないものの、公教育の場は多くの子どもが集まるからこそ、重要な役割を果たせるのではないか。
アメリカでは、DEI(多様性・公平性・包括性)に関する取り組みが進んできたが、今年1月のトランプ政権発足後、大きなバックラッシュに見舞われている。しかし、マジョリティが自らの特権性を認識することの重要性は、今でも変わらない。そうした先行事例から学び、同じ過ちを繰り返さないために、私たち自身も真剣に考える必要がある。
一般的な評価基準に沿って生きる子どもたちが息苦しさを感じているという話があった。学びの中での評価、特に評定のあり方についてどのように考えているか。
藤原氏:評価や評定というのは、本当に難しいもの。どうしても試験のようになりがちで、子どもたちへの影響も大きい。私の子どもは日米で育ったことから、日本の学校の通知表、アメリカの公立校の通知表、国際バカロレア校の通知表、ギフテッドの選定テストなどさまざまな評価を受けてきた。そうした多様な評価に晒されると、ある意味、評価への依存度が下がってくる。親としては、子ども自身が「自分らしさ」を失わずに育ってほしいと願っている。
そのうえで私が強く思うのは、不用意に子どもを傷つける、その子のポテンシャルを抑え込んでしまうような評価や評定には、絶対になってほしくないということ。特に小学校、10歳くらいまでの時期は、親や先生の言葉を丸ごと受け取ってしまう。中高生になれば、ある程度自分で判断する力もついてくるが、幼い頃はまだまだ「信頼する人の言葉」がすべてになってしまう。だからこそ、その大事な時期に不必要に傷つけるような評価・評定があるならば、それは変えなければならないと考えている。
先日の中央教育審議会ではインクルーシブの話が多く出ていたが、一方で現在の評定のあり方についてはどのように捉えているのか。
野口氏:前回の方針は落とし所として適切だと考えている。というのも、2歳半になる自分の子どもや保育園の子どもたちの様子、大学生との対話を通して感じたのは、子どもたちが本来持っている「学びの楽しさ」が、成長とともに削がれていくという現実だ。泥団子をピカピカにすることに夢中だった保育園時代から、いつの間にか「レース」に乗せられ、競争に巻き込まれていく。大学で勝ち抜いたと思えば、次は就職活動という新たなレースが待っている……そんな構造に疑問を感じている。
「主体性を育む」ことが重視される教育の中で、むしろ「主体性を削ぐな」と言うほうが重要なのではないか。いかに自分の言葉かけが、子どもたちの主体性を削いでいるかを意識してほしい。不登校の子どもたちに対して「意欲がない」と決めつけるのではなく、誰がどのようにして「本来持っていた意欲」を奪ってしまったのかという視点が必要。教育とは、子どもに何かを「付け足す」のではなく、もともと持っていたものを「大切にする」、そして「取り戻す」ことだと思う。
デジタル端末が、探究的な学びやインクルーシブ教育に重要な道具となっている側面もある一方、欧米では使用を控える動きやデジタル教科書を廃止する国も出てきている。端末の有無という世代間ギャップを埋め、どうアップデートしていくべきなのか。
今度氏:日本のメディア教育は主に「個人の安全」や「リスク回避」に焦点が当てられているが、ヨーロッパではメディアの扱いは社会的責任と捉えられている。メディアが社会を分断したり、戦争や差別を引き起こしたりする可能性があるからこそ、その影響を考えて使うことを学ぶ、という視点が非常に大きい。
さらに、テクノロジーを活用して社会課題を解決できるという意識を育てることも、メディア教育の重要な目的のひとつ。しかし、日本の若者は、社会参画や変革への意識が諸外国に比べて低いとされており、社会に目を向けた学びがもっと必要だ。
海外ではSNSの使用を制限する動きも見られるが、海外のネットトラブルは日本よりもはるかに深刻で、犯罪に巻き込まれたり、性被害に遭ったりするケースも多く、保護者による指導が難しいという現実もあるため、安全性を担保するために制限は必要と考えられている。ただし、制限だけではなく、よい使い方を学び、社会に責任を果たすという教育も並行して行うべきだという視点も忘れてはならない。海外のモデルをそのまま日本に持ち込むのではなく、子どもたちによい使い方を教えることが重要。特に小さな子どもが暴力的なコンテンツに自由にアクセスできる現状に対して、大人がどう責任を果たすかを真剣に議論する必要がある。
また、ネットトラブルは端末があるから起きるわけではない。その背景にある課題に目を向けることが大切。欧米では、保護者への福祉的なサポートは学校ではなく関係機関が担っており、日本でも子どもがトラブルを起こす背景にある課題を見据え、それに対処することが求められる。教育で解決できることと、教育では解決できないことをきちんと分けて考えることが、今後のメディア教育には必要だ。
最後に、司会の野本氏が「『ふつうをアップデートする』というテーマに対して、自分のしんどさの原因が社会の側にあるかもしれないと気づき、それを少しずつでも変えていこうとしている姿勢が印象的だった。そのためには、自分『ふつう』だけではなく、他者が感じている課題や違和感に耳を傾け、折り合いをつけるという積み重ねが必要と感じた」と語り、まとめの言葉とした。