日本と海外の「ふつう」を比較、視点を変えて「ふつう」を見直す
そんな藤原氏と同じように野口氏も日本とアメリカの文化の差から「ふつう」のあり方に疑問を持ったという。先生がサンドイッチを食べながら授業を行っていたことやテーブルに座ることなど、日本とは大きく異なる「ふつう」があった。とりわけ自身が当時通っていた日本の小学校では「先生にとっての正解」を当てにいくような授業が多く、適切な行動とは「空気を読む」と認識していた。しかしアメリカに渡った途端、「あなたはどう思う?」「どうしたい?」と、自分の意見を問われる場面が頻繁に訪れ、戸惑いとともに「価値観の大きなギャップを感じた」と語る。
さらに、アメリカで机の上や床に座ることが「ふつう」になった結果、日本に帰国後、大学で机に座って注意されたというエピソードを紹介。こうした経験を通して、野口氏は「『ふつう』とされる行動がいかに環境や文化に依存しているかを痛感し、自分自身の行動や価値観を見つめ直すきっかけとなった」と述べる。
では、そうした「『ふつう』と思っていたが、どうやらそうでもないこと」を排除し、新たにアップデートしていけばいいのか。藤原氏は、日本とアメリカの教育の違いを肌で感じた経験から、単に海外のものに変えるのではなく、学びのバランスを見ながら「新しいふつう」を改めて考えることを提案した。
例えばアメリカの教育では、子どもの意見や主体性が重視される一方、教師の教授スキルには課題も多く、算数の授業で多くの子がつまずく様子を目の当たりにしたという。一方、帰国後に日本の中学校に通い始めた際には、慣れない環境に苦しみながらも、体系的・系統的な学びによって確かな学力が身についたことを実感。藤原氏は、探究学習やPBLの推進者として活動しながらも「それだけがすべてではない」と語り、学びの多様性と安定した基礎学習を両立させる必要性を強調した。そして「教育の理想は1つではなく、文化や個人の背景に応じて柔軟に設計されるべきではないか」と語った。
今度氏は「必ずしも海外がすべてよいとは言わないが」と前置きしたうえで、情報モラル教育の研究を通じて、日本の教材が「してはいけないこと」を挙げるばかりで、ネガティブな視点への偏りが多かったことに疑問を抱いてきたと語る。海外の教育事例を調べる中で出会ったのが、アメリカの「デジタル・シティズンシップ教育」だった。そこでは、子どもたちの判断力や感覚を信頼し、メディアとのポジティブな関わり方を具体的に学ばせる姿勢が印象的だったという。
しかし、学会などでは「アメリカはデジタル・シティズンシップ教育をしているのに社会が分断されているではないか。そんな教育をしても意味がないのでは」と、問われたこともあったといい、今度氏は「人々はそれぞれ異なる思想や価値観を持っている以上、社会の分断そのものをなくすことはできない。重要なのは、その多様性を前提として、『問題の根底にある原因は何か、それをどう解決するか』を議論して、他者の意見と比較し合意形成をはかり、問題に関係する人が納得のいく答えをいかに導き出すかを学ぶことではないか。アメリカのメディア教育では、異なる意見や価値観を比較し、異質な他者と同じコミュニティで共に生きていく力を育むことが重視されており、こうした教育は、まさに民主主義の根幹に関わるものだと感じている」と語った。
また、聴覚障害者が多数を占めていた、アメリカ北東部のマーサズ・ヴィニヤード島の事例を紹介し、「障害」とは社会構造が生み出す概念であることを強調。手話が主流だったその島では、聞こえないことは障害ではなく、手話が使えないことが不自由だったという事実が、社会のあり方次第で「障害」の定義が変わることを示している。こうした視点を教育に取り入れることが、真のインクルーシブ社会への一歩になるのではないかというわけだ。