全米最先端の脳科学研究機関「Center for Neurotechnology」
同センターは、脊髄損傷や脳卒中などさまざまな神経学的障害を有する人々のために、科学技術を応用して感覚や運動機能を改善するための研究を主に行っていますが、この分野では全米ナンバーワンと言ってもよい機関です。同センターはワシントン大学にあるものの、マサチューセッツ工科大学、サンディエゴ州立大学、カリフォルニア工科大学などとも深く連携を取り、全米中の研究機関から優秀な研究者を積極的に招聘していることでも知られています。
こうした研究機関がワシントン大学内に拠点を構えるに至った背景には、大学のあるシアトル市近郊において、テック系産業が成長し続けていることがあげられます。今ではカリフォルニア州のシリコンバレーに並び、「シリコンフォレスト」と呼ばれるようになったこの地には、世界最大のコンピュータ・ソフトウェア会社・マイクロソフトをはじめ、多くのIT・テック企業が拠点を構えています。Center for Neurotechnologyにおいても産学共同研究が盛んに行われ、多くの地元企業が研究への支援をしているそうです。マイクロソフト、インテルなどをはじめ、現在同センターを支援する企業は、40社近く。こうした企業はまた、同センターと共に、次世代を担う子どもへのテクノロジー教育などにも熱心だと言います。
チャドラー博士の興味深い経歴
――先生の肩書を拝見すると、とてもたくさんの異なるエリアを渡り歩かれた印象を受けますが、どのような理由があったのでしょうか?
脳の機能をくまなく研究するには、脳のことだけを学ぶのでは不十分だと思ったからです。脳は多面的です。ご存知のとおり、脳は人間の生活におけるすべての「司令塔」。それが何も関係しない人間の器官は、ないに等しいのです。だから可能な限り多くの側面から脳科学を研究するというのは、一見バラバラな研究をしているように見えても、実は最も理にかなった方法と言えました。
私はまず、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)で遺伝子レベルから体を治すことを学ぶ「精神生物学」について学びました。精神生物学とはつまり、心理学と生物学を統合した学問ですが、それを経て大学院の博士課程では「心理学」を学びました。大学院を卒業後、さらに研究を続けるために所属したのは、国立衛生研究所でした。そこでは「歯科学」の研究をしました。歯の研究を終えると、その後、私はボストンに移り、マサチューセッツ総合病院で神経外科に所属して3年間働きました。シアトルに戻ったのはその後ですが、最初の所属はワシントン大学医学部の麻酔学科でした。数年ほど麻酔学科で研究した後が、現職です。私の現在の肩書は、Center for Neurotechnologyのエグゼクティブ・ディレクター、そしてワシントン大学のバイオエンジニアリング学部リサーチ准教授になります。
このような説明をすると、私は心理学者であり、歯科医、外科医、麻酔科医でもあるように思うかも知れませんが、そのいずれも私には当てはまりません。さまざまな研究をしてきましたが、私が貫いている学問は「神経科学」です。バラバラに見える研究課程は、すべてそこに繋がります。例えば、歯科学を研究したかった理由は、歯科医になるためではなく、歯の痛みから神経およびそれに付随する脳の研究を行うためでした。体のあらゆる器官から送られるさまざまな情報を、脳がどのように処理するのかを学ぶには、1つの学科を掘り下げて学ぶだけでは不十分だったのです。
――Center for Neurotechnologyでは、一体どんなことを研究されているのでしょうか?
Center for Neurotechnologyは、ワシントン大学を中心にさまざまな大学と連携したリサーチを行っており、アメリカ国立科学財団によって創設されたものです。バイオエンジニアリングは、読んで字の如く「医療工学」を指します。ここでは神経系に障害を負った人の機能不全を補うために、装着をしたり、脳内に直接埋め込むことを目指した未来型テクノロジー開発に関わる研究を行っています。例えば脊髄を損傷してしまうと、脳の機能には何も問題ないのに四肢麻痺を起こしたりすることは知られていますね。そこで必要になるのが、医療工学というわけです。切れてしまった神経のコードが再び繋がる方法を模索したり、ダメージを補うためのデバイス開発をしていくには、継続的な技術開発研究が不可欠です。こうした研究は学生たちへの指導としてだけでなく、民間の医療専門会社などとの連携がなければできません。私の役目はそれらの監修です。
「脳の機能」を知ることは、子どもの才能を開花させるのに不可欠
――Center for Neurotechnologyのディレクターとして、子どもの教育にはとても力を入れているそうですが、それはなぜですか?
子どもにどうやって「脳の機能」を学ばせるか――これは私のライフワークでもあります。近隣の学校であれば、ボランティアで脳機能を教えにいくことをはじめ、教育者向けに指導法教授などもしています。
脳は「その人自身」と言えます。記憶、感情、コミュニケーションのツールとしての言語――これらは脳なしには機能しません。だからこそ、脳を知ることは自分を知ることなのです。私はあらゆる機会を通じて、子どもたちに脳は「変えられる」ことを伝えています。とてもシンプルなことですが、このシンプルなことが重要なのです。これを知っている学生は、知らない学生よりも「あらゆる点でパフォーマンスが優れる」というデータもあるほどですから、子どもたちは誰もが小さなうちから、脳機能の基本的性質を理解した方がよいのです。
――脳が「変えられる」とはどういうことですか?
例えば「生まれつきい私は頭が悪い」という学生や、「ウチの子どもはバカだ」という親がいますが、それは大きな間違いです。脳というのは変化し続けることが可能であり、刺激を与えれば例え100歳であっても活性化できることが分かっています。だから子どもたちは、このメカニズムを正しく知り、正しい学びと脳の機能にあった生活習慣を心がける必要があるのです。子どもにとって最も大事なのは「脳は変えられる」ことを知ること、そして生活習慣上で最も重要なことは「睡眠」です。
――「寝る子は良く育つ」ということわざが日本にはありますが、「寝る子は頭がよくなる」ということでしょうか?
実によく事実を表現したことわざですね。例えばですが、よく試験のために「一夜漬けする」という学生がいます。しかし脳機能の観点から見ると、その学習方法は効果的とは言えません。なぜなら2~3時間しか寝ていない状況下では、記憶力は低下することが分かっているからです。
アメリカの10代の若者は、慢性的な睡眠不足と言われています。学校で学んだ後に宿題を行い、課外活動、大学準備など、とにかく忙しい。そのため睡眠時間を削る傾向が顕著になりますが、これは脳科学、神経科学の観点からみても良いことではありません。先ほど述べたように睡眠不足は記憶力の低下を引き起こしますが、それ以外にもさまざまな身体的、精神的な健康上の問題を引き起こすリスクにつながる懸念があります。
シアトルでは、学校と公共施設の始業時刻を2016年度に7時50分から8時45分に変更しました。その結果、生徒たちは平均34分以上、多くの睡眠をとることが可能になったことが分かっています。睡眠不足のまま、眠たい目をこすったまま何かを詰め込んでも、学んだことが習得されにくいのですから、睡眠時間が増えたことは、今後シアトルの学校の子どもたちの学力向上にもプラスに働くのでは、と見ています。