はじめに
前回の記事では「探究的であるというのは『手段』ではなく『生き方』である」ことと、今の日本の教育では「探究的な生き方を支えるための『学びの世界を広げるデザイン』が大切」ということをお話ししました。
今回は「探究学習と受験の関係」や「必修化される高校の探究学習と小中学校での学びの関係」を紐解いていきます。
受験にも探究的な学びは必要?
まずは探究学習と受験との関係を解説します。前回「受験のみをゴールにした、子ども一人ひとりの資質や興味関心を無視した教師主導の詰め込み型学習だけを推進している現場は、強く否定されるべきものだ」と書きました。しかし、受験という仕組み自体は社会的にも必要でしょうし、自分で学びの場を選び、そこに入るために学ぶという過程は非常に建設的なものです。大切なのは一人ひとりの資質や興味関心が違うという前提を教育現場が理解し、そういった前提の上で自分の学ぶ場所や内容を選ぶ権利が保証されていくことです。その権利「学びのオーナーシップ」が保証され、建設的に行使することができれば、自ずと「学びの世界」は広がっていきます。
では、学びのオーナーシップの考えを前提とした、好ましくない受験への向き合い方とはどのようなものでしょうか。受験生側の例で挙げられるエピソードとしては「社会で通用しそうだから何となく経済学部を選ぶ」といった学部の選び方や、「社会へ出たときに学歴があれば何とかなるから偏差値の高い難関大学を受ける」といった思考です。前述の通り、一人ひとりの資質や興味関心を無視した決め方と言えます。
この考え方のもと、大学に入学するとします。入学後は(あるいはその後の人生も含めて)自分の適性とやりたいことが合致している人と共に学んだり、時には競い合ったり、比べられたりすることが多々あるでしょう。そして、結果的に壁にぶつかってしまう可能性が高いのです。
受験生に授業を行う教員や学校側の視点にも立ち、好ましくない例を挙げてみましょう。例えば「大学に入らないと始まらないから受験勉強のみを行う」「詰め込んで暗記をすれば誰もが成績が伸びる」といった考え方です。後述しますが、経験や体験が少なければ受験に必要な抽象的な知識を理解することも難しいですし、何よりも学習者の適性と、学校で学ぶことの間にミスマッチが起きてしまいます。
受験というのは多大なコスト(金銭、時間など)を必要とし、努力を伴うものだからこそ、進路のミスマッチは避けなければいけません。
繰り返しになりますが、そういった状況を回避するためには受験までにさまざまなものから気づきや学びを得る体験、つまり、探究的な学びが必要だということです。
探究的な学びを小学校から高校まで長い時間をかけて体験することにより、自分の人生の方向性や、どのような場所で何を学びたいか、学んだことをどのように日々の生活に活かし、社会に還元していきたいのかということを考える精度が上がるでしょう。