はじめに
グローバルでは、幼児教育(初等教育入学前の未就学児。日本の場合は3~5歳を想定) に対して、社会、保育園・幼稚園、そこで働く先生、保護者・養育者はどのように向き合っているのでしょうか。今回は、OECD(経済協力開発機構)が2001年以降発表している「Starting Strong(人生の始まりこそ力強く)」の報告内容を踏まえつつ、その間のデジタルテクノロジーの急速な進展や、COVID-19(新型コロナウイルス感染症)による「New Normal(ニュー・ノーマル)」の世界が急速に広まっている昨今の世界情勢を考慮に入れて、現状の各国の幼児教育に対する考え方を整理しつつ、今後の幼児教育のあるべき姿について考察してみたいと思います。
「幼児教育」に対する世界的な潮流
OECDのアンヘル・グリア事務総長は2012年、フランス・パリでのスピーチで、「雇用と就職能力(エンプロイヤビリティ)を促進し、格差を是正するには、人的資本への投資が不可欠である。人的投資は幼児期に始め、正規の教育と労働へと継続して実施されなければならない」と強調しました(※出典1)。
OECDでは、2001年から「Starting Strong」というレポートを発行していますが、この2012年のアンヘル・グリア事務総長の「幼児教育・保育の質に関する基準と目標を確立すべき」というメッセージは、幼児期の教育・保育の重要性を主張し始めた2001年以降、そうした「教育の質」に基準を設けるべきだという点においては、大きな転換であったと言えるでしょう。
ちなみに、「Starting Strong」は、2001年の「Starting StrongⅠ」を皮切りに、2006年の「Starting StrongⅡ」、2011年の「Starting StrongⅢ」、2015年の「Starting StrongⅣ」、2017年の「Starting StrongⅤ」と5度報告を行っています(※出典2)。OECDのような経済に関する国際機関が幼児期の教育に関する報告を2001年以降継続的に行っている背景には以下3つの観点があると言えるでしょう。
(1)「ヘックマン・ショック」
ジェームズ・ヘックマンの「幼児教育・保育への投資が社会全体にもたらす経済効果は、それ以降の教育機関(初等教育・中等教育・高等教育など)への投資より極めて大きい」という主張です(※出典3)。
ジェームズ・ヘックマンはシカゴ大学の経済学者で、2000年に労働経済学の計量経済学的な分析を精緻化したことでノーベル経済学賞を受賞しています。ヘックマンのこの主張は、当時のグローバリゼーションの拡大とともに、全世界的な経済格差や教育分野における非均一性に対する社会政策的な意義を背景としているメッセージと見られますが、幼児期への社会・経済的な投資は、その子どもたちが成人した際の社会・経済的な成功と相関があり、ひいては、その子どもたちの税負担能力が高まり、社会全体としての還元が高まり、生活保護などの社会保障費用も抑制することができるというものです。こうしたジェームズ・ヘックマンの主張は、幼児期における教育への関心を世界的に高める一助となったと言えるでしょう。
(2)脳科学や心理学における幼児と発達に関する研究成果の活用
ジェームズ・ヘックマンのレポートに加えて、幼児期の学びがその後の子どもの発達や人生に大きな影響を及ぼすということが、アメリカやイギリスを中心とした発達調査の中で一定の傾向があることがわかってきたことも近年の幼児教育に対するパラダイムシフトの傾向と言えるでしょう。
直近のOECDのレポートである「Starting StrongⅤ」の中にも、そうしたパラダイムを反映したメッセージが盛り込まれています。たとえば、言語(Language)、数字(Numbers)、社会性(Peer Social Skills)、感情のコントロール(Emotional Control)の4つに関して興味深いデータを公表しています。
言語(Language)や感情のコントロール(Emotional Control)に関する感性は生まれつき(母胎にいるときから)発達し、2歳前後がピークにあること、数字(Numbers)や社会性(Peer Social Skills)については、生後から2.5歳頃のピークに急速に感性が高まっていくことが示されています。こうした、脳科学や心理学の研究成果により、科学的に幼児期における教育の重要性について国際的に合意されていることは、近年の幼児教育の特徴と言えるでしょう。
(3)幼児教育における2つの思想と教育品質基準に関する注目の高まり:「Readiness for School(初等教育の就学準備)」 と 「Social Pedagogy Tradition(社会教育の伝統)」
幼児期における教育の重要性や、この時期における投資について社会全体からの経済効率・公平性の観点からその重要性が認識されることが高まるにつれて、幼児教育の位置付けに関する2つの思想が注目されるようになってきています。
OECDの「Starting StrongⅡ」(2016年)では、2つの幼児教育に対する考え方があることを示唆しています(※出典4)。フランスや英語圏については、「Readiness for School(初等教育の就学準備)」を採用してきたのに対し、北欧や中央ヨーロッパの国々では、「Social Pedagogy Tradition(社会教育の伝統)」の考え方に基づき、幼児期を生涯学習の基盤作りのステージとして位置付け、幅広い知識・スキルを身につける期間とする考え方です。
こうした考え方を基礎としつつ、モンテッソーリやレッジョエミリアなどの教育理念・思想・実践を取り入れつつ各国が教育の質を向上させるために、政策や制度、指導の実践などの改革を積み重ねています。